最初に沖縄県庁を訪ね、基地対策課からオスプレイ対策についてのレクチャーを受けました。県は、飛行ルートや騒音、低周波などの問題の解決のために関係市町村と対策協議会を結成して政府や米軍に働きかけていました。
長野県でも、米軍が計画しているオスプレイの飛行ルートに17市町村が組み込まれており、いろいろ参考になるてんがありました。
続いて党沖縄県議団と懇談。子どもの貧困の実体を様々な指標で明らかにした党県議団の取り組みが、全国初の県独自の貧困率の調査や対策計画の策定などに結び付きました。議会活動や論戦のあり方について勉強になりました。
そして、沖縄本島からさらに南西に300㎞。ちょうど那覇と台北の真ん中あたりに位置する宮古島へ。
200平方キロメートルたらずの小さな島に、送り込まれ日本軍は3万人。設置された17ヶ所の慰安所には、日本の植民地や占領地から次々と慰安婦が連行されました。
少年時代に慰安所の近くに育ち、慰安婦とも心の交流があった与那覇博敏氏(写真右)は、歴史の事実を記録に残し、二度と戦争を繰り返してはならないと、私財を投じアリランの碑を建てました。
一面のサトウキビ畑の中で、慰安婦のアリランが聞こえてくるようでした。
その宮古島は、いま、自衛隊の対空対艦ミサイル基地につくりかえられ、安保法制の最前線に立たされようとしています。その予定地などを視察しました。写真は、途中で立ち寄って伊良部島の砂浜。
沖縄の帰りに、東京にいる長女と新宿駅で待ち合わせて食事。いきなり「お父さん、私仕事変わったの」という爆弾発言。
確かに前の仕事は、だいぶ悩み苦しんでいたことは聞いていたけど…。
そして新しい仕事は書籍販売関係の契約社員とのことでした。
新しい仕事は気に入っていて、人間関係もいいみたいで本人もスッキリしていて、自ら決めたことに納得をしている感じでした。
新幹線の時間までわずか一時間でしたが、想定外の展開に少々動揺をしながらも長女の成長を感じました。
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